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第3回ハイライト「筑前りょう太氏」

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新春特別企画 あなたの夢かなえます!「九州ば元気にするバイ!!」

日時:2010年1月20日(水)
つたえびと:NPO 法人 九州プロレス 理事長  筑前りょう太氏

とにかく、熱い!
とにかく、器が大きい!
とにかく、少年の様に夢を見ている!
こういう生き方くさいですか?
こういう生き方かっこ悪いですか?
こんな時代だからこそ、夢を見よう!
こんな時代だからこそ、くさくカッコ悪く生きよう!



今回の「つたえびと」はNPO 法人・九州プロレス理事長である筑前りょう太氏。
九州産業大学を卒業後、プロレスラーになるために単身メキシコへ渡航。1998 年1 月4 日メキシコ・アステカブドーカンにて対ミル・マスカラス& ブルー・デモンJr.組でプロレスデビュー。新日本プロレスに魔界倶楽部のマスクマン「魔界2 号」として参戦。
その後、生まれ故郷の九州で地域密着型のプロレス団体を立ち上げる夢を実現するため、KAIENTAI-DOJO からの脱退と九州プロレス設立を決意。そして、九州プロレスは2007 年10 月16 日、日本初のNPO 法人によるプロレス団体として認証された。


「プロレスと地域の元気の相乗効果」を促進したいという九州プロレスの活動は
1、まちづくりの増進を図る活動 
2、学術・文化・芸術又はスポーツの増進を図る活動 
3、子供の健全育成を図る

という3 つの理念を基に活動している。


夢を持たない人が数多く入る中、今回は筑前りょう太氏にプロレスの話はもちろんのこと、夢への挑戦、何故今九州なのか?など思う存分お話ししていただきました!

今回はいつものFukuoka成長塾とは違った雰囲気でスタートしました。

まずは、会場のみなさんの手拍子で「博多にわか」のマスクをつけた筑前さんが入場。
そして、筑前さんが小さい声で「みなさんこんばんは!!」のあいさつ。
これに会場のみなさんが小さい声で「こんばんは」と応えます

筑前さんの声が徐々に大きくなり、最後には部屋に響き渡る声で「みなさんこんばんは!!」。
これに会場のみなさんも部屋に響き渡る声で「こんばんは!!」と応えます。


いつもと違う雰囲気で始まった第3回Fukuoka成長塾ですが、筑前さんの熱い思いがすごく伝わってくる熱い熱い内容の講演となりました。

なぜ、「博多にわか」のマスクをつけているのか。

はじめに関東でこのお面をつけていた頃、関東では「何のマスクなのだろう」「何をつけているんだろう」と思う人が多かったのです。 福岡では当たり前の「博多にわか」の知名度はゼロだったのです。それでも私はこの「博多にわか」のマスクをつけ続けました。

なぜかと言うと、このマスクをつけ続ける事で自分は博多の人間であるという事を示そうとしたのです。




ここで、筑前さんは「このマスクの中身・素顔を見てみたいですか?」と問いかけられます。
もちろん、会場のみなさんは見たいに決まっています!

そこで、筑前さんがみなさんの期待通りにマスクを外します。
会場からは「おおー!!」との歓声が上がります。

こういうところもいつもとは雰囲気が違っています。




人生の転機


小学2年生のとき、私にとって衝撃的な出会い・転機が訪れます。
昭和56年4月23日のお風呂上りのこと。タイガーマスクVSダイナマイト・キッドの試合がテレビ上に流れていました。すごくかっこよかったことを今でも覚えています。これで一瞬でプロレスにノックアウトさせられてしまいました。そのときのことは、そのときの試合のビデオを見るだけで鮮明に思い出すことができます。


それからというもの、プロレス中心の日々が始まります。学校ではもちろんプロレスごっこをし、いつものようにタイガーマスク役の取り合いです。


ある日の事、「プロレスをやるならちゃんとしたプロレスをやろう」ということになり小学生にしてプロレス団体を作りました。しかも、観戦前売りチケットやパンフレットまで作りましたよ。そうすることでプロレスラーに少しでも近づけた気がしていました。

プロレスラーへの道

中学に入ると部活動などの影響もありプロレスファンは私一人になっていました。 こうなると、もうプロレスおたくへの道をまっしぐらです。試合を観に行くのはもちろん、ビデオにはしっかり試合を録画していました。


その頃は、将来は何でもいいからプロレスにかかわっていきたいと考えていました。当時は身長が150センチ程度だったこともあってプロレスラーになりたいとは考えた事もなく、プロレスショップの店員や仮面作りになりたいと考えていました。


しかし、高校に入ると身長が1年で10センチ伸び、結局3年間で30センチも伸び身長が180センチになったのです。


そこで初めてプロレスラーになることを意識し始めたのです。
でも当時の体重はたったの60キログラムで身長を考えるとガリガリでした。
そこで九産大に在学中に体重を40キログラム増やし100キログラムにし、プロレスラーになると決めました。


それからは、体力をつけるために移動は自転車で毎日のように自宅がある志免から大学がある香椎まで50分・香椎から天神のジムまで50分・天神から志免まで50分走りました。

しかし、始めて半年位たったころ振り返ってみると体重はほとんど変わらなかったのです。
そこで、自分に課題を設定しました。
朝と昼それぞれ3合・夜4合の米を食べる事にしたのです。昼は3合分のバケツみたいな弁当箱をぶら下げて大学に通ったりしていましたよ。


こういったことがあり、卒業時には180センチ100キロの体を手に入れることができました。

単身メキシコへ

無事に大学卒業を卒業しました。そこで、プロの道へ進もうと思い、まずはどうしようかと考えました。 色々な団体がありましたが、やはり憧れはあのタイガーマスクです。 だから、「タイガーマスクのルーツであるメキシコで始めよう!」思い、それからは練習もしながら渡航費・生活費稼ぎの土木作業などの肉体労働のアルバイトを始めました。夜は用心棒のアルバイトで佐世保基地からのアメリカ兵の喧嘩を止めるというものもやりました。

バイトを始めて半年で100万円が貯まりました。
そのお金でついに、1997年8月メキシコへと渡ります。

現地ではプロレスは一般的なものでした。
まずはジムに入り半年間の修行を積みました。
メキシコは成長へのステップであり、将来は日本で成功したいという思いがとても強かったです。 

メキシコでも自分に課題を設定しました。ヒンズースクワットを毎日2000回こなすことです。朝7時から1時間程度かけてやり続けました。



ここで「みんなでスクワットをしましょう!」と筑前さん。
今回はただ講和を聞くだけではなくみんなで体を動かしました。

ついにデビュー戦を迎えました。相手はあこがれのミル・マスカラスでした。でも、そのときの記憶が全く無いんです。 覚えていないんです。 一週間前にデビュー戦の相手を聞いてから試合が終わるまで覚えていないのです。 でも多分やったんでしょうね。


ここで私なりのプロレスの見解を述べます。

プロレスは競技ではないんです。
戦う姿勢を見せることでお客さんに感動を与える・元気を与える・勇気を与えるものなんです。年齢なんか関係なく、誰が見てもわかりやすく戦いを表現するものなんです。
みんなで楽しむものなんです。

そういうこともあって、私はメキシコでも大きな会社と契約できました。 毎週自分の試合がテレビに出るまでに自分を持っていくことができました。


しかし、ある試合で大失敗をしてしまったのです。
それは退屈な試合。お客様がトイレにいってしまうような試合。どちらを応援すればいいのか分からないような試合。

その試合後には、全く試合に出る事ができなくなってしまいました。
契約も打ち切られ、無一文の生活になりました。
野宿寸前の生活でした。
そんなとき、ある人に助けられホテルの住み込みのバイトを始めることができました。


練習が足りなかったのでこの境遇になったのではないかと考え、それからは練習の日々です。
練習に練習を重ねて、もとにいたポジションにまで戻る事ができました。
契約も結んでもらえました。

メキシコに学んだ3年間

メキシコに行った頃、メキシコのことは大嫌いでした。 汚い・約束は破る。 とにかく嫌いだった。

こいつらはココしか知らない。
だから、Wカップ・独立記念日のときなどにこんなにも「メヒコ!メヒコ!」と自分の国に対して熱くなるんだなと思っていた。


でも、どこにいってもメキシコに対して愛を感じている国民ばかりいる。
私も普段からメキシコ人のメキシコに対する愛を感じるのです。

だんだんと私の考えは変わっていきました。
こいつら本当はいいやつだなと。

メキシコの人たちは、自分を育ててくれた国・いい時間を過ごさせてもらっている国であるメキシコが大好きなんだ。

自分がここにいることを・愛しているということを表現しているんだ。
感謝しているんだ。


これをみて私は決めたのです。
将来、博多へ帰ろう。

「プロレスを通して何かができないか。みんなが博多を大好きになるような、ここにいて幸せだなと感じることができるようになる何かができないか。」


大嫌いだったメキシコに私は学んだのです。

千葉での経験

日本に帰国後、私は千葉に行きました。 それは新たなプロレス団体できたからです。


千葉に住んで分かったことですが、千葉の人たちは自分たちの土地について何も言わないのです。
千葉に行ってから2年ほど経ったとき、こういうことを考えました。千葉の人にとって何が自慢なのか?
東京の隣にあることか。


それから、「千葉、これじゃいかん」と思い考え始めます。プロレスを通して何かできないだろうか。
千葉に住んでいて良かったなと思えることができるようなことがないだろうか。

そこであるイベントを開催しました。「R60」というイベントです。60歳以上しか見てはいけないイベントです。

このイベントの狙いは、千葉で働いている若い人たちが千葉の先輩たちのことをいつも考えていますという事を伝えることにありました。
内容は、まず昭和30年代の力道山の試合を映像でみてもらう。これを見てもらうことでタイムスリップしてもらう。
そのあとに、千葉の若いプロレスラーが実際に試合をするという内容です。
これは大成功しました。

九州プロレスの設立

その後、福岡に帰ることになりました。そして九州プロレスを設立。

この団体が何をしたいのか。私が着ているTシャツに語ってもらいます。

会場のみなさんがで声を出して「九州ば元気にするばい!!」。


プロレスはお年寄りと子供が一緒に見れるものだと思っています。
九州の人たちで九州を盛り上げようという団体として私は九州プロレスを作りました。


この団体では色々な活動をしています。


その中のひとつとして「不登校児にプロレスを通した教育活動」というものをしています。
これは全部こちらが決めた通りのプロレスをやってもらうというものです。
少し変わっているかもしれませんが、これは勝敗・技・技の順番をまず決めてしまい、それに沿った試合運びをすることで、お客様に感動を与えるという体験をして欲しいという意図があるのです。
社会に出て仕事全般に通じるものだと思うのでこういう体験をしてもらっています。


そしてあるときは、「先輩ば元気にするばい慰問ツアー」と称してデイサービスの施設などを慰問するというものです。
お年寄りの方にはすごく喜んでもらえています。
職員の方がビックリされるくらいお年寄りの方には喜んでいただいています。

筑前りょう太氏から最後に一言

私は、プロレスが家族や人との潤滑油にでもなれればいいな、 話の種になることができればいいなということを考え活動しています。

ここで筑前さんが鍛え上げられた肉体を披露してくださることに!

会場のみなさんの手拍子で筑前さんの肉体披露となります。
もう会場は興奮状態です!


最後に筑前さんとみんなで一言
「この体で九州ば元気にするばい!!」


九州にはほかに無いプロレス団体なので、この九州プロレスの設立は私にとっての挑戦です。たくさんの笑顔をプロレスを通して与えていきたいと思っています。

そして、もちろん最後の一言は会場のみなさんと一緒に


「Fukuoka成長塾から九州ば元気にするバイ!!」




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