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第14回 ハイライト「山本貴士氏」

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日時: 2012年1月18日株式会社エムビーエス 代表取締役 山本貴士氏



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MBSって会社って?

 

 MBSってなんの略ってよく聞かれるんですけど、仕事は創るものという意味のMake Business Styleの頭文字をとっています。



父の影響

 まず、創業期から今現在までの自分史ということで、私が会社になろうと決めたのはもう4歳とか5歳のころとかのレベルですかね。父親が山口の宇部市で会社をやっておりまして、今で言うインテリアコーディネーターとかで、そこそこ名が売れていました。そんな父親をみまして、不思議な事に父親のようにはなりたくないが、父親のように会社の社長にはなりたいとなんとなく思ったんですよ。父親の会社は一時はでかかったですし、事務所なんかもありました。僕は毎朝お母さんに起こされて、従業員の大学生くらいの働き盛りの若者を朝起こすことから始まり、夜は食事の準備があり、お母さんは朝のご飯の準備が終わったら晩御飯の準備って感じで働いていました。
 でもそんな生活も長くは続かなかったんですよね。父親がある保証人になって4000万の借金が出来、会社が音を立てて崩れていったんですよ。両親は暴力団に追われて、すぐ家族は関東の方へ引っ越すことになったんです。でも、ぼくはおじいちゃんおばあちゃんっ子だったんで頑固として両親と一緒に行かなかったんですよ。で残っていたら、祖父母に対する暴力団の取立てがひどくって、自分の息子の居場所が分からないはずがないだろうって。当時、本当に僕もおじいちゃんもおばあちゃんも親がどこにいるかなんて知らなかったんですよね。あっという間に、事務所も家も全部取られました。



家族と再び

 

 二年後くらいに母親からの要望で、僕も家族と暮らす事になりました。父親は、二十代後半という若さで事業を始めて、それも保証人になったから倒産しただけで、自分で失敗はしてないってこともあり、プライドがやたら高く、才能で勝負するってところがあって、どこに勤めても勤まらないんですよ。一週間から十日で辞めてくるんです。だから、僕たちは母親の内職で生活していたんですよね。僕からすると「あー、あれだけ若くして事業を成功して、あぁゆう生活をしていたのに、一歩間違えると簡単にこうなってしまうんだな」って。で、小さいながら思ったのが、「1回なんとかここまでいったんだから、また努力すればいけるんじゃないかな」って。



人生のスイッチ

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 自分の父親の失敗から学んだことと、それともうひとつ自分の父親以外の人って学校の先生かテレビで活躍するプロ野球選手くらいだったんですよ。プロ野球選手を目指して、野球さえやれば良いと思っていたんです。しかし、野球するにはグローブやらスパイクやらとてもお金がかかるんですよね。なかなか小学校三年生のときには、無理があって、地元のソフトボールクラブ入りました。そしたら、たまたま野球チームの監督が見ていたみたいで、母親に全部道具は用意するからチームに入ってくれと言われて、野球することができたんです。で、頑張った甲斐もありましてキャプテンになれたりして、そのチームは甲子園に出場するような選手を輩出している名門中の名門でした。

 僕も甲子園目指していたんですけど、父親は仕事が続かない上に仕舞いには酒乱になりまして、それには母親も堪忍袋の緒が切れたみたいで、当然離婚して母親を失いました。経済的に苦しくなって、妹を高校に行かせてやりたいと思ったので、自分は高校を断念して働く事にしました。

 みんなが高校3年生ときで僕が働いている時に、ふとテレビを見たら甲子園がやっていて、ボーっと見ていたら小学生の頃に一緒に野球チームに入っていたやつがバッターボックスに立っていたんですよ。僕は羨ましいとかいうよりも自分自身に落胆して悔しくって、ただ涙がこぼれてきました。それまでは、飯が食えればよかったんですけど、これからはもう自分は甲子園に行けないけれど、甲子園を目指していたあの気持ちで仕事を頑張ろうと思ったんです。このとき、自分の人生にスイッチがはいりました。



ヤナセに入社

 

 でも、その当時していた長距離運転手の仕事では、自分は将来安定した収入が見込めないと思いました。そう思った時に運がいいことに、友達のおじさんに当たる人が、ヤナセの取締役で「お前なんで高校いっとらんのんな」と聞いてきたので、「これこれこうゆう理由で」と説明しました。そうすると、取りあえず勉強して最低限の入社試験をクリアできてれば、採用してやると言う事でめでたく入社することができました。たまたま、これも運が良くて新入社員でしたが人事で選ばれて、様々なことやマネジメントについても学ぶことができました。



山口へ

 

 入社して一年半くらい経って、先がもう見えてしまって、面白くないなと。元々僕は、社長になりたかったんで、その会社を辞めることにしたんです。すると、辞める時にヤナセの取締役のあのおじさんがお金がないだろうからお金もやるよって。どうせやるならと思って、山口県の宇部市に戻ってリベンジすると決めたんです。その日に、家やら家具やらを全部引き払って、山口に行って不動産でその日から暮らせる家を探しました。夕方過ぎに生活必需品を買いに外に出たとき、宇部市の過疎化に驚きました。



建築業へ

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 まず、職を見つけなければと思って。独立するためには、資本が必要です。独立するにしても、生活するために最初は仕事しないといけないと思いました。それならば、精神的にも肉体的にももう一度鍛えよう、さらに企業のいいところを見つけようと思い3Kと呼ばれる建築業を選びました。たまたま、新聞に足場の組み立ての求人が載っていたので、すぐ連絡し、面接を受けに行きました。そしたら、雇用するとかではなく、二人以上が条件の委託の仕事で、とりあえず一緒に面接を受けた10歳年上の人と仕事をすることになりました。それで僕が社長という形になったんですよ。
 最初の三ヶ月は、本当に飯が食べられませんでした。知り合いも友達もいないので、誰にも頼れなくてほんと辛かったです。このとき、考えないで思いだけで行動したことをひどく後悔しました。その時にですね、自分はなんのためにヤナセにいたのか、なにを学んだのかと考えました。いわゆる自動車業界のシステム、マネジメントなど建築業より進んだロジックを仕事に使うことにしたんです。今まで手取り15万ほどだったんですが、4ヶ月目には手取り100万位になりました。



会社上場へ向けて

 

 山口は、ヤナセで働く人たちと違って今でいうヤンキーが多くて、でも人柄はとてもいい奴らばっかりで、どうにかこいつらを働かせてやろうと思ったんです。そうすると、上場しようという考えが浮かんだんです。上場って言葉を、周りの人は誰も知らなくて。足場を作っているだけでは、上場は無理だと考えました。それでもし、足場まで外装まで出来るようになったら最強だなと。商品開発・技術開発を始めて、会社のビッグビジネスとしようとしたんです。結婚してから、家計は嫁が支えてくれていたんですけど、その研究費として8000万出してくれて。8000万あったら、山口で買えないものは無いと思い開発することを決めました。

 1997年にホームメイキャップの開発をして、翌年には特許を申請しました。しかし、最初は全く売れませんでした。なので、記事にしてもらうために東京にある新聞社24社全部回って、他は全く相手にされなかったんですけど、日経新聞に大きく記事にしてもらえて山口県をはじめ、世間に認知してもらうことができたんです。このこともあって、ここからのスタートだから5年後には株式を上場しようと決意したんです。



二度目の人生スイッチ

 5年後に株式を上場させることを宣言しようとして、山口県の宇部市の全日空ホテルに「5年後に上場するので国際会議場を空けてくれ」と言ったんですよ。そしたら、担当者に「原則ホテルの予約は一年前になっております。有限会社ですよね?まだ株式してないのですよね?国際会議場とのことですが、変更もできますので。」と小馬鹿にされて。その時、僕に甲子園見たときと同じように二度目のスイッチが入ったんです。

 しかし宣言してから年々、他の塗装屋よりも技術は確実に勝っているけど証明する機会がなくて、駄目じゃないかなと思っていたんです。そしたら、ほんとに僕は運がいいみたいで、6、7年前中国地方に大きな台風が2つきたんです。他の外装塗装は被害が大きかったんですけど、ぼくらの分は何ともなくて。これで実力を証明することができたんです。僕は、証券会社の人と仲が良くてですね、エコひいきじゃないですけど、なんとか上場させようとしてくれていました。これで、ひょっとしたら宣言通りいけるんじゃないかなと思いました。 極めつけは、言いにくいんですけど、地震があったことです。予算の関係で半分だけ塗装して、半分していなかった家は塗装した半分だけなんともなかったんです。これが広まって、JR九州をはじめ食品会社などが採用してくれて、証券会社も認めてくれて、5年前の宣言通り上場記念パーティーを開くことが出来たんです。



出会いは大切

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 僕は出会いも大切だと思っていて、志に共鳴してくれる人っていうのは、一緒に働いてくれるスタッフで、もちろん会社の中は実力主義なので、取締役になったのは一名ですけどね。志を具現化してくれる人は、外部役員としての経営支援を行ってくれる人です。コンサルティングってすごいのは、一歩引いたところで冷静な判断をくだしてくれるところですね。志を表面化してくれるひとっていうのは、CI戦略の立案実行をしてくれるデザイナーですね。これからの時代デザイナーを大事にしてください。こんなに世の中もので溢れると、もう判断するのはパッケージとかなんです。見た目で選ぶことが多くなります。才能のあるデザイナーと仲良くしてください。それをしていないと、チャンスをとりこぼします。
 志を告知してくれる人っていうのは、マスコミとかなんですけど事業戦略・技術紹介をしてくれる人たちです。結局、どこの誰とかを伝えるのは、マスコミや商工会等の力を借りるのが一番早いんですよね。志を評価してくれる人は、国や県の行政の機関ですね。技術認定や補助金を出してくれるので、大事にした方がいいです。志に箔を付けてくれる人っていうのは、有識者や著名人の方で信頼性の向上につながります。あとは、志に勇気を与えてくれる人ですね。無条件に成功を祈ってくれる人が周りにどれだけいるかっていうのは凄い大事なことで、友人もそうですし、親友とか、家族とか。めげそうなときにこういった人たちの存在って大きいんですよね。なによりも、実績の有無に関わらず買ってくれる、つまり志を買ってくれる人に出会うっていうのは大事です。



事業とは結果ではない

 僕は創業の時から言っているんですけど、「事業とは結果ではなくて途中が大事」だと今でも思っています。「大事なのは結果ではなく芸術的なプロセスにあり、芸術的なプロセスはドラマチックな結果を生むもの。」これはまさに、僕が上場を宣言したときのことですね。「芸術的なプロセスの考察は、その本人が持つプライドをありのままに映し出すものである。」プロセスってその人のコンセプトを反映していて、何してもいい、結果がよければいいじゃないんです。「即ちその本人が持つプライドが結果である。」と思っています。



センスとビジョンとバイタリティー

 創業家とか起業家って何ということなんですが、センスとビジョンとバイタリティー。これに尽きると思います。「センスとは、天性的なものを指すのではなく、自分に出来ることとしたいことが一致しているかどうかを想定した巻き戻し機能」このセンスは、生活の中で培われるセンスです。「ビジョンとは、いつまでに何をどうするかという目標の他、その状況を頭の中でイメージ出来、それを如何なる状態でも自然イメージする再生機能」お腹が空いていようが、心が沈んでいようが、いいことが続いてハッピーな状態であろうが、如何なる状況でも、自分が定めているように同じように再生されることが大切です。「バイタリティーとは単に勢いのある行動力だけではなく、頭の中でイメージした事に基づいて勇気を持って動き、働きかける先送り機能」行き当たりばったりではないんです。先をイメージして行動することが非常に大事だと思います。



最後に

 僕たちがJRや高速道路などを施工出来るのは、日本でぶっちぎりの技術を持っているからです。民間でばっちり10年間みっちり実績を積んでいますから。大手は確かに規模は大きいですが、相手が大手だからとか関係ないんですよ。やっているのは、サラリーマンですからね。ただ、下手をすると規模に持って行かれますよ。圧倒的なものを持って下さい。それは、技術でも商品でもいいんです。これが一番大事です。

 それとですね、自分のところがどう利益があって、売上があって、どうだとか自分の企業のことばかりに固執してはいけません。いかに周りに影響を与られるかというのも大切です。周りと仲良くしていかないと、いやがらせとか怖いですからね。色んな人にいい影響を与える。周りが助け合っていくと困ることはないですからね。地方で起業するっていうのは、自分の会社ではなく、地域全体のことを考え助け合うことが大切なんですね。世界経済混乱状態ということもあり、一寸先は闇なので、そういった準備をしていってください。




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